愚濁山の聞法メモ

ここでは、私の浄土真宗の聞法経験メモ(聞法メモ)と、その後の観察・検証などを綴っていく予定です。(※予定は未定)

はじめに

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(お知らせ)26/2/10

日々念仏(雑記)仏教美術と現代人

を投稿しました。

ここでは、私の浄土真宗の聞法経験メモ(聞法メモ)と、その後の観察・検証などを綴っていく予定です。
(※予定は未定)

 

仏教用語の解説などはある程度していますが、基本的に、浄土真宗にそこそこ触れている方を前提に書いています。

全く触れたことのない方、ご縁のまだ浅い方、教義がよく分からないという方は、並行して龍雲さんのサイトを御覧になってください。

ゼロからわかる浄土真宗 – 他力信心について簡単に理解できるサイトです。

 

聞法メモには、後日分かった点、その時知っていれば……という当時の聞法の問題点、当時を振り返っての個人的な考察などを注釈・解説で適宜挟んでいます。
聞法の参考になれば幸いです。

 

※あくまで個人の状況に即した内容になりますので、必ずしも万人に当てはまるとは限りません。

お導きは人それぞれですので、参考にしつつも、【ただ今助けるお救いを先送りにせず、自らにかかった本願の仰せを優先】していただければと思います。

また、考察に関しては、推測や個人的見解も含まれます。

 

聞法メモ 目次

gudakusan.hatenadiary.jp

 

聞法の注意点 目次

gudakusan.hatenadiary.jp

 

〇〇生活のすゝめ / 教学上の話ではない、個人的な生活のすゝめ

 

日々念仏(雑記) / 仏教や浄土真宗絡みの色々な話

よくあるズレ、思い込み / 聞法でよくあるケースを簡潔に紹介、解説

念仏者の情景 / 他力の信心を頂くと何がどうなるのか? についての等身大の話。

御文章 / 御文章に絡んだ話

雑談 / 雑談

日々念仏(雑記)仏教美術と現代人

今回のテーマは、「仏教美術と現代人」

厳密に教学で語られている話でもないので、雑談寄りの考察話になる。

 

念仏者は、仏教美術に感動するようになるのか?

……と言うと、半分その通り、半分違う、と言った感じだろうか。

 

まず、現代人は昔ーー親鸞聖人や蓮如上人の時代ーーと比べて、神仏に対する一般感覚の分布範囲が広い。

簡単に言うと、大多数が神仏へ敬意を持って暮らしている社会ではない。

私もそうだったが、そもそも、仏教美術をただの美術品としてしか見ていない人も多いわけだ。

更に、美術品として関心があればまだ良いが、元々特に何も思わなかったのであれば、信心いただいた瞬間に、急に特別な感情が湧くという事もない。

そも、「仏教美術に特別な感情を湧かせてみせる」「湧かなければ救われない」ーーなどという仰せではないのだから、当然と言えば当然である。

感動できない事で、不安を感じる必要は全く無い。

ただ、阿弥陀様への感謝の心はいただいているので、それと導線が繋がるかどうかがポイントなのだと思う。

先程、「半分その通り」といったのは、この点を踏まえてのことだ。

以前、〇〇生活のすゝめ【2】お仏壇生活のすゝめで「御本尊を見据える」と言う話をしたが、眼の前の御本尊ーーひいては、仏教美術阿弥陀様の御恩が結びつくか否か。

 

日暮らしの中で御育てをいただいて、心持ちが変わるにつれ、見え方も変わっていくのかなと思う(※勿論、変わらなくともお救いに問題はない)。

日々念仏(雑記)死ぬのが怖くない?

今回のテーマは、「死ぬのが怖く無い?」

 

念仏者は死をどう捉えるのか、死に対してどうなるのか、よくある疑問の一つである。

信心をいただいたら、死ぬのが怖く無くなるのか?

簡潔な答えを書くと、

・後生の不安は無い

・死ぬというプロセスに対しては、個々の煩悩次第

である。

参考:「本願に疑いはないのですが、やはり死ぬのが怖いです…この気持ちを誰にも話せずにいます。」(頂いた質問) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

 

阿弥陀様は、後生は引き受けてくださるが、【物理的な意味で楽に死ねる】とか、【煩悩の執着がなくなって心置きなく死ねる】ようにしてくださるわけでは無い。

例えば、世界一の名医が「手術とリハビリで快適になりますよ」と言ってくれて、あなたはその約束に微塵の疑いも持っていない(※現実にはありえないが、阿弥陀様の例えなので)。

でも、人によっては手術自体は嫌だったり、リハビリなんて御免だと思うだろう。

手術費用だって惜しい。

でも、快適になる事(浄土)が誓われているから、心強く、励みになる。

手術やリハビリは【死の物理的苦しみ】、手術費用は【残していく財産などへの執着】を指している。

これは煩悩に由来するので、人によって様々だ。

どこまで何が気になるか、何が気にならないのかは個人の問題となる。

私もできれば、苦しんで死ぬのは勘弁願いたい。

だが、後生は阿弥陀様が引き受けてくださる。

 

まぁ、嫌なものは嫌である。

しかしながら、後生は心強いのだ。

日々念仏(雑記)信心と喜びと日々の念仏

今回のテーマは、「信心と喜びと日々の念仏」。

【他力信心】と【喜び】との関連性、【日々の念仏】についての話。

 

まず大前提として、【阿弥陀様の仰せを素直に聞ける喜び】といっても、【素直に聞ける耳】は「阿弥陀様が皆へ等しく与えるもの」なので同じだが、【喜び】は「個々の意業への反映」なので、人それぞれである。

また、【喜び】自体はただの意業であり、【お救いの証拠ではない】。

庄松さまの、こう言うお話もある。

或人庄松に尋ねて言えるに、「喜ばいでも御浄土へ参られるだろうか」。

庄松が答に、「参られる参られる」と。

又暫くして曰く、「喜ばんのに御浄土へ参られたら、御阿弥陀様に愧(はず)かしかろうじゃ」。

(庄松ありのままの記より)

喜べるから、南無阿弥陀仏が有り難いのではない。

南無阿弥陀仏に後生をお任せできるから、その有り難さへの【感謝】と【安堵】で【人それぞれの喜び】が湧くのだ。

【自らの喜び(機)】に信心を探してしまうと、ズルズルと方向がズレて行ってしまう。

要注意ポイントの一つである。

 

参考1:「阿弥陀仏に救われた方は「自らの行いを省み、慚愧と歓喜を感じさせていただく」「正しくない生き方をしていたなあと少しづつでも改めていく」とされます。未信の身から聞かせていただくと常に自分の正しさが問われているようでとても苦しく大変な生き方なのではないかと思います。本願の身になった上でそのような思いが実感できることはありましたでしょうか。また、未信の時そのようなことは特に考えていませんでしたか。」(Peing-質問箱-より) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

 

参考2:「実際に信心獲得したらよろこびは生じるものなのでしょうか」(Peing-質問箱-より) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

 

参考3:「本願を聞いて疑いないですが、感動も喜びもないので浄土真宗を周りに伝えようとは思えません。煩悩の塊である人間に浄土往生が定まったということが喜べるのでしょうか。」(Peing-質問箱-) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

 

……と、長〜い前置きをした上で、「あくまで私の話であり、しかしながら、似たような方がいたら参考になるかも?」という話をしていこうと思う。

 

私の場合は、本願を素直に聞けるようになった直後から、ある程度 落ち着いたしみじみとした感じが強かった。

折に触れ、落涙するような感動もあるが、そう頻繁にあるようなものではない。

そして、【貪愛瞋憎の雲霧】とはよく言ったもので、【素直に聞ける耳】は全く変化がないものの、煩悩に忙殺されると喜びが埋もれてゆく。

阿弥陀様の御恩に気が向かないから、喜びが小さくなる。

当然の話だ。

反比例して、【疑煩悩】がちょっかいを掛けてくる頻度も上がる。

何とも、意業なんぞは当てにならないものである。

喜びを当て頼りにする事が、如何に無意味かよく分かる。

 

こんな情けない凡夫にとっては、やはり、阿弥陀様へ触れる機会を増やすことが大事なんだろう。

※もちろん、自力の話では無いので、修行とかそんな意味合いはない【ただの心掛け】の話である。

 

何も、毎日法話を聞こうとか、そこまでの意気込みじゃなくていい。

まず、念仏する事。

別に、「こうしなくちゃダメだ!」なんて話ではない。

折角いただいたお念仏を、称えないのは勿体無いじゃないか。

庄松さまの言うように、後生を引き受けていただいて、喜ばないのは何とも愧かしい。

是非、積極的に、御恩を讃嘆させていただこう。

 

日々に忙殺されて念仏を怠ると、阿弥陀様の仰せを記憶の片隅に置き忘れる。

聞く耳はなくなっていないから、念仏をする(阿弥陀様に聞く)と「あった、あった」と思い出す。

 

称え聞くは弥陀の恩

 称え讃えるは弥陀への報謝

  全て弥陀の他力回向

 

庄松さまの「信心わすれた」の逸話はこういう事なのかな?と、しみじみ思うこの頃である。

 

三木郡田中村森山勝次郎と、富田村およしと同道にて、高松の別院に参詣の途中にて。

庄松曰く、さあしもうた忘れものを致した。

勝次郎曰く、何を忘れた。

庄松曰く信心をわすれたと申す、言葉と共に南無阿弥陀仏と申候。

(庄松ありのままの記より)

日々念仏(雑記)【御文章】の誤解しやすいポイント

今回のテーマは、「【御文章】の誤解しやすいポイント」について。

 

お勤めの際に、御文章を拝読する方も多いと思う。

多くの人が慣れ親しんでいるものではあるが、現代仮名遣いではなく、当時と今で単語の意味が変化している場合もある。

特に勘違いされやすい点が幾つかあるので、今回は、それをざっくり簡単に取り上げてみようと思う。

 

詳しい説明は、教学に詳しい先達の方々がされているので、興味を持たれた方は安心問答さん等で検索していただきたい。

 

・たのむ

「弥陀をたのめ」「たのむ一念のとき」など頻出する単語だが、現代の「頼む」とは意味合いが違う。

阿弥陀様が「私にまかせてください」と仰っているから、それに対して「お任せします」と自力の計らいなく【お任せする】のが【たのむ】である。

現代語の意味のように、こちらからお願いする必要はない。

阿弥陀様が】あなたに願っているのだ。

↓「たのむ」とは?具体的な解説はこちら。

参考:「弥陀をたのむ」とは、やみくもに「たのもう、たのもう」とするのではなく、南無阿弥陀仏が既に聞こえている(届いている)ということに気付くといった方がよいのでしょうか?」(Peing-質問箱-より) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

 

・信心

真宗では自力信心他力信心で明確に分けられており、御文章では省略されて【信心】とだけ書かれている箇所が多くある。

文脈を読めば、どちらかは知らなくともある程度分かるのだが、現代の一般的な【信心】の意味は自力信心のみであるため、先入観で文脈を読み損なうと、何が書いてあるのか見失う。

↓自力信心と他力信心の違いとは?具体的な解説はこちら。

参考:第6章 救いを邪魔するもの – ゼロからわかる浄土真宗

 

・ふりすてて

「雑行・雑種・自力の心をふりすてて」など、よく使われる言い回しである。

「ふりすてよ」と言われると、「自力で捨てる」ように思ってしまうかもしれないが、「自力が廃る」のは【阿弥陀様のお仕事】である。

自力で頑張って捨てるのではない。

これに関しては、聞法の注意点【5】【6】でも語っているので、良ければそちらも参照のこと。

参考:「私は今まで「雑行雑修自力の心をふりすてて」はある程度までは自力の作業だと思っておりました。」(猿松さんのコメントより) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

 

・やすく

「やすくたすけたまえる」など、これも頻出する表現である。

聞法している方には「どこが易いんだよ!」と言いたい人もいるかも知れない。

私もそうだった。

意外と、ここに言及している話も少なかったりする。

これは、【本当に易すぎるから難信】という事なのである。

例えば、あなたがパソコンやスマホでメールボックスを開いたら、「10兆円もらえます!ここをクリック!」というメールが届いていたらどうするだろう?

迷わずゴミ箱へINすると思う。

しかし、阿弥陀様の仰せは、クリックどころかメールボックスを開く必要もなく、既に届いているのである。

易いどころの騒ぎではない。

あとは、【たのむ】か、【撥ね付ける】か、それだけである。

 

日々念仏(雑記)ハンドルネームとプロフィール画像の由来

日々念仏(雑記)という事で。

このカテゴリには、仏教や浄土真宗絡みの色々な話を投稿しようかなと思う。

尤も、かなり変化に乏しい日々を送っているので、投稿頻度は何とも言い難い。

この記事の投稿時点では幾つかストックがあるが、ネタが尽き次第、不定期更新になると思われる。

 

今回は、初回ということで、手始めに「ハンドルネームとプロフィール画像の由来」について。

 

ハンドルネームをどうしようか、となった時、親鸞聖人の「愚禿釈」を手本にして何かできないかと考えた。

最初は、仏法にスッカラカンなのと黒い泥のような自認から「虚黒泥」を思いついたが、仏教の虚や黒は特別な意味を持つためお蔵入り。

愚禿釈……愚……愚……そうだ、濁を入れて愚濁でどうだろう。

……名前っぽくない。

ぐだく……ぐだく……具だくさん?

愚かで濁った山、愚だくさん、愚濁山!

洒落も効いていて気に入ったため、これが採用された。

 

プロフィール画像の由来は、妙好人 浅原才市さまの「角のある肖像画」のエピソードが元となっている。

出来上がった肖像画に、「これはわしじゃない」と角を付け加えさせた、というものだがーーさて、自分ならどうするだろう? と考えた。

時代背景もあり、自分は鬼という概念に馴染みがない。

聞法メモ聞法の注意点で語った通り、自認は煩悩で真っ黒な泥凡夫である。

ならば、「黒く塗りつぶしてくれ」と自分なら言うだろうな……ということで、黒塗りとなっている。

仏教で黒はポジティブな色なので、正確に仏教寄りの表現をすると、黒色ではなく【濁色】と言った方が良いのかな?

その【濁塗り】が、光明に包まれている様を自画像として作成してみた。

実際に描いてもらうとしたら、汚い色を何十にも重ねた感じになると思う。

決して、手抜きではないw

 

〇〇生活のすゝめ【2】お仏壇生活のすゝめ

今回は、「お仏壇生活のすゝめ」という事で。
近頃はお仏壇のない家庭も増えているがーー真宗を聞法するならば、できればお仏壇は置いていただきたいなと思う。

 

まず大前提として、仏壇がないからといって、救われないと言う事はない。
そもそも、御本尊を各家庭で仏壇に安置するというのも、釈尊在世の頃にあったわけではない。
私自身、何処かのお寺の門徒というわけでもなく、形骸化した慣習であればとんと興味がない。
しかし、極めて合理的な真宗で、あの蓮如上人が推し進めたという事は、それに意味があるという事だ。

 

実は、お仏壇には、「生活そのものを阿弥陀様を中心としたものに作り変える」と言う働きがある。

 

信前には、小まめに仏法へ心を引き戻す縁に。
信後には、信心を荘厳する縁に。

朝晩・外出・帰宅時に御本尊へ向かって手を合わせる、お勤めをする、手入れをする、etc……。

豪華でなくてもいい、ネットの画像をコピーしたものでも良いので、それを安置して、御本尊を生活の主役にしてみよう。

私の場合は、家族に隠れての簡易の隠し仏壇(扉付きの収納棚に偽装)を所持している。

花が用意できないのでお仏花は造花だし、火が使えないので蝋燭はLED、煙も出せないので、線香ではなくアロマストーンで代用している。

 

参考1:「なぜお勤めをするべきなのでしょうか? お勤めにはどのような意義があると考えられますか?」(rさんのコメントより) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

 

参考2:「お勤めするときに名号または木像、絵像は必要でしょうか? 今まで時間が無いと言い訳をしお勤めをしなかったのですが最近なぜか無性にしたくなりまして。しかし仏壇を配置する場所もなく困っております。」(退会二年目さんのコメント) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

 

余談だがーー先達の方に教えていただいた事だが、礼拝合掌する時は目をカッ開いて、「阿弥陀様の前に私が立たせて頂いている」と、しっかりとご本尊を見つめると良いそうだ。
実際、私もやってみたが、驚くほどの違いがあった(※個人のお味わいです)。
元々、「御本尊どころか全方位から自分と一緒にいてくださる」「念仏するそこにいる」そんな感覚であったのだが、しっかり御本尊を見据える事で、「あゝ、その全方位から包んでくださっているのが、あの御名号様(※私の御本尊は御名号本尊である)なのだな」と、お味わいが一段と深くなった。

 

また、御本尊に向かう際は、珠数もあると尚良い。
大前提は仏壇と同じ、珠数がないからといって、救われないと言う事はない。

蓮如上人は、御文章(二帖第五通)でこう仰っている。

そもそも、この三四年のあひだにおいて、当山の念仏者の風情をみおよぶに、まことにもつて他力の安心決定せしめたる分なし。

そのゆゑは、珠数の一連をももつひとなし。

さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。

聖人、まつたく「珠数をすてて仏を拝め」と仰せられたることなし。

さりながら珠数をもたずとも、往生浄土のためにはただ他力の信心一つばかりなり。

それにはさはりあるべからず。

まづ大坊主分たる人は、袈裟をもかけ、珠数をもちても子細なし。

これによりて真実信心を獲得したる人は、かならず口にも出し、また色にもそのすがたはみゆるなり。

しかれば当時はさらに真実信心をうつくしくえたる人いたりてまれなりとおぼゆるなり。

↓現代語訳、解説はこちら

参考:御文章 二帖五通 数珠章を現代語訳してみました|かなへび

教義上の話は置いておいても、形から入る事で、心も引っ張られるという事もある。

 

何処までも醜い凡夫なのだ。
珠数ぐらい、カッコつけてみよう。

〇〇生活のすゝめ【1】お念仏生活のすゝめ

「〇〇生活のすゝめ」という事で。
大した引き出しもないのだが、一応シリーズとして括ってみようと思う。

全体的に、教学上の話ではなく、個人的なすゝめとなる予定だ。

 

今回は、「お念仏生活のすゝめ」。

案外、知らない人が多かったりするのだが……お念仏は、必ず御本尊の前で合掌して、大きく声を出さないといけないものーーではない。
もっと自由に、気軽に、何処でも、周りに聴こえないぐらい小さくても、自分にだけ聞こえる形で称えても良いものなのだ。
日頃、余りお念仏をされない方は、是非、日常の中でお念仏に親しんでみて欲しい。

※声に出すのが難しい方は、心で念じても大丈夫です。

参考:「なぜ口称念仏を勧めてられるのか分かりません。声に出せば救われやすいとか、心で称えるのが声に出せない方への救済処置と思えば腑に落ちますが、阿弥陀様がその様な区別をするとは思えません。」(でんさんのコメントより) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

 

信前のお念仏は、世間事に気を取られる心を阿弥陀様へと引き戻し、称えている間はずっと名号を称え聞く聴聞となる。

私としては、敢えてしない理由が見当たらない。
阿弥陀様が口から出て、悪いことなんてありはしない。
どんどんお念仏すると良いーーと言うのが、正直なところだ。

参考:「(南無阿弥陀仏と)称えている最中に『これはつれてゆくぞと仰っているんだなあ』と考えなければならないのですか、私は特に何も考えずに称えていますが(頂いた質問) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

 

※とは言え、蓮如上人も御文章で注意喚起しておられるが、「本願疑惑心を除かれなくても、ただ称えていれば助かる」は聞き間違いなので注意。
また、「自分の念仏を手柄として助かろう」という意識でしてはいけない(自力となる)。

 

そして、信後の念仏は、まさに宝である。

 

具体的にいつ称えるのかというと、私の実例(100%毎回やっているわけではないが)を思いつく限り上げてみると、

 

・お勤めの前後、間

・お勤めの和讃で
・自らの機に阿弥陀様の慈悲を見た時
・お風呂で
・お手洗いで

・家事をしながら
・家の中での移動中に

・散歩をしながら
・外出移動中に
・運転中に(※1)
・通勤中に
・仕事をしながら

・とにかく隙間隙間に

・気付いたらいつの間にか

 

ーーお念仏のタイミングは、結構多い。

 

※1 事故には注意。運転の集中が乱れない人限定