今回のテーマは、「信心と喜びと日々の念仏」。
【他力信心】と【喜び】との関連性、【日々の念仏】についての話。
まず大前提として、【阿弥陀様の仰せを素直に聞ける喜び】といっても、【素直に聞ける耳】は「阿弥陀様が皆へ等しく与えるもの」なので同じだが、【喜び】は「個々の意業への反映」なので、人それぞれである。
また、【喜び】自体はただの意業であり、【お救いの証拠ではない】。
庄松さまの、こう言うお話もある。
或人庄松に尋ねて言えるに、「喜ばいでも御浄土へ参られるだろうか」。
庄松が答に、「参られる参られる」と。
又暫くして曰く、「喜ばんのに御浄土へ参られたら、御阿弥陀様に愧(はず)かしかろうじゃ」。
(庄松ありのままの記より)
喜べるから、南無阿弥陀仏が有り難いのではない。
南無阿弥陀仏に後生をお任せできるから、その有り難さへの【感謝】と【安堵】で【人それぞれの喜び】が湧くのだ。
【自らの喜び(機)】に信心を探してしまうと、ズルズルと方向がズレて行ってしまう。
要注意ポイントの一つである。
参考1:「阿弥陀仏に救われた方は「自らの行いを省み、慚愧と歓喜を感じさせていただく」「正しくない生き方をしていたなあと少しづつでも改めていく」とされます。未信の身から聞かせていただくと常に自分の正しさが問われているようでとても苦しく大変な生き方なのではないかと思います。本願の身になった上でそのような思いが実感できることはありましたでしょうか。また、未信の時そのようなことは特に考えていませんでしたか。」(Peing-質問箱-より) - 安心問答−浄土真宗の信心について−
参考2:「実際に信心獲得したらよろこびは生じるものなのでしょうか」(Peing-質問箱-より) - 安心問答−浄土真宗の信心について−
参考3:「本願を聞いて疑いないですが、感動も喜びもないので浄土真宗を周りに伝えようとは思えません。煩悩の塊である人間に浄土往生が定まったということが喜べるのでしょうか。」(Peing-質問箱-) - 安心問答−浄土真宗の信心について−
……と、長〜い前置きをした上で、「あくまで私の話であり、しかしながら、似たような方がいたら参考になるかも?」という話をしていこうと思う。
私の場合は、本願を素直に聞けるようになった直後から、ある程度 落ち着いたしみじみとした感じが強かった。
折に触れ、落涙するような感動もあるが、そう頻繁にあるようなものではない。
そして、【貪愛瞋憎の雲霧】とはよく言ったもので、【素直に聞ける耳】は全く変化がないものの、煩悩に忙殺されると喜びが埋もれてゆく。
阿弥陀様の御恩に気が向かないから、喜びが小さくなる。
当然の話だ。
反比例して、【疑煩悩】がちょっかいを掛けてくる頻度も上がる。
何とも、意業なんぞは当てにならないものである。
喜びを当て頼りにする事が、如何に無意味かよく分かる。
こんな情けない凡夫にとっては、やはり、阿弥陀様へ触れる機会を増やすことが大事なんだろう。
※もちろん、自力の話では無いので、修行とかそんな意味合いはない【ただの心掛け】の話である。
何も、毎日法話を聞こうとか、そこまでの意気込みじゃなくていい。
まず、念仏する事。
別に、「こうしなくちゃダメだ!」なんて話ではない。
折角いただいたお念仏を、称えないのは勿体無いじゃないか。
庄松さまの言うように、後生を引き受けていただいて、喜ばないのは何とも愧かしい。
是非、積極的に、御恩を讃嘆させていただこう。
日々に忙殺されて念仏を怠ると、阿弥陀様の仰せを記憶の片隅に置き忘れる。
聞く耳はなくなっていないから、念仏をする(阿弥陀様に聞く)と「あった、あった」と思い出す。
称え聞くは弥陀の恩
称え讃えるは弥陀への報謝
全て弥陀の他力回向
庄松さまの「信心わすれた」の逸話はこういう事なのかな?と、しみじみ思うこの頃である。
三木郡田中村森山勝次郎と、富田村およしと同道にて、高松の別院に参詣の途中にて。
庄松曰く、さあしもうた忘れものを致した。
勝次郎曰く、何を忘れた。
庄松曰く信心をわすれたと申す、言葉と共に南無阿弥陀仏と申候。
(庄松ありのままの記より)